小清水純一

PROFILE

小清水純一

1969.11.25生

HISTORY

1969

埼玉県深谷市 婦人服の縫製工場の長男として生まれる

母子手帳を見ると純一2歳「純ちゃんはコーラをおいしそうに飲んだ」とある
この頃から偏頭痛との戦いの人生がはじまる

埼玉県深谷市 婦人服の縫製工場の長男として生まれる
1979

僕の好きな先生

担任の先生が病気になり4年生で新しい男性の先生になった
4年生からのクラブ活動で僕が入ったのが、その先生が顧問をしていた写真クラブ
僕らの小学校には暗室があり、自分で撮影したモノクロフィルムの現像をカラカラとやり、引伸機にそのフィルムをセットし印画紙に焼付け現像液につけるを写真が浮き上がってくる
赤い電球のその部屋と現像液の匂いが今も小学生時代の大きな思い出だ
当時の刑事ドラマのシーンのような…
その先生が家庭訪問にきた日のこともよく憶えている
僕の話など一切せず、父とカメラの話で盛り上がり、なぜか先生が仲介に入り父はNikon F2 フォトミックと2本のレンズを買ってしまうことに
僕はNikon EMを手に入れて鉄道写真に夢中になった
現在、雪山を滑る仲間を撮るのは当時L特急を流し撮りしていたことが役になっているのかも
当時のレンズは今は SONY α7に付け使い続けている
あの先生との出会いによりファインダーのその先に大きな世界が広がっていった

僕の好きな先生

1979のカメラの写真は白黒がいいかな?その時のレンズで写してみました

1985

人生を変えたありがたい怪我

空手の稽古中に左肘脱臼 その怪我をきっかけにスケートボードにのめり込むことに

1枚のスケートボードでぼくの世界は大きく広がり地域を越えて仲間が増える
スケート中に色黒の先輩にナンパされその週末から海通いが始まる
ぼくの人生の大きな転機となる

人生を変えたありがたい怪我

当時買ったパウエルのロドニーミューレンモデルの復刻

1987

スノーボードと出会う

家族にも周りにも雪山で遊ぶ人はいなかった環境で育つ

85年から都内スケートショップへ通うようになりそこで流れる映像と実物を見てスノーサーフィンの存在を知る
87年の夏、高崎にスケートボードの店がオープンし仲間と通い始める

オーナーに「スノーボードって知ってる?」
BURTON CRUIZERとソレルを入手
オーナーのデリカに乗せてもらいその年の11月、丸沼高原スキー場のブルーコースで初滑り
毎週末の雪山通いが始まる

スノーボードと出会う

1988年春 乗鞍岳からの帰り道

1991

バンタンデザイン研究所卒業

卒業後、㈱デサントにスポーツウェアのデザイナーとして就職
小さなオリジナルレディーススポーツウェアのスキーウェア、水着、リゾートウェア、フィットネスウェアなどの企画を担当
テキスタイルの開発から、デザイン、工場との打ち合わせなど、小さいブランドだからこそ多岐にわたる仕事をやらせてもらった 深谷6時53分発の高崎線に乗り、帰りはほとんど23時、0時を過ぎる日々
その時は仕事も通勤も大変だったけど、今思えば本当に良い勉強をさせてもらい感謝 通勤時間は読書をする時間としてとてもいい時間になった
この経験が今に役立っている
その間、サンデーボーダーとして山へと通い続けたが、92、93年頃になるとスノーボードが一気に普及しシーンは様変わりしスタイルの変化にも戸惑いスノーボードにあの頃のような魅力を感じなくなっていく

1996

体調を悪くし半年の休職後に退職

体調の急変もありこの先会社勤めは出来ない、今後なにをすべきか半年ベッドで休養をとりながら将来を考える

1997.5

結婚

1泊だけシアトルのホテルを予約しアメリカ西部の街、山の近くの大小アウトドアショップや雑貨店などをめぐりロサンゼルスまでの2週間
大きな店でもその心地よい接客態度
小さく素朴な店の専門的なセレクトのありかたとエッセンス的な品揃えに感動する

結婚
1997.8

Relax Backpacking & Snowboarding開業

562926_419114011458648_1207179617_n当初、WINTERSTICKの板のみを扱い、ブーツ、バインディングなどの販売はしない
業界になんのツテもない自分には大手メーカーには相手にしてもらえない
時代は翌年の長野オリンピックへ向けスノーボード全盛期を迎えようとしていた
スノーボード“ブーム”最高潮期をはた目でやり過ごすのを客観的に見ていた
大型のバックパックやソロテントなどのBackpacking用品やウェアがところ狭しと並んだ店内
世界を旅する人たちが訪れ、楽しいい話をたくさん聞くことができた

2000

GENTEMSTICKの取り扱いを始める

99-00シーズンの終わり、八幡平での試乗会で玉井太朗氏とかたい握手を交わす
日帰りで行った八幡平、この日のことは今でも鮮明に覚えている
「話していてもなにもわからない…智基、小清水くんの板のセッティングしてあげて一緒に滑ってきて」吹き荒れる吹雪の中ぶかぶかの新雪を始めてのTTで滑る
智基くんが並走して「小清水さーんっ、もっと前を踏んでください」
楽しくなんてなかった
ただ悔しさが大きく残った
上手く乗りこなす人を目の当たりにして自分もこの板に乗れるようになりたいと強く思った

2001

9.11

台風の影響でアメリカン航空の到着が遅れていた、カウンターで状況を聞くと「落ちない限りは飛びますよ」とブラックなことを言われる
ヨセミテのジョンミューアトレイルの一部を歩こうと成田を飛び立った9.11
サンノセ空港着陸約1時間前に機内放送が流れる「アメリカ国内において非常事態宣言が出されました…」滑走路に降り立つと銃を持つ武装警察が並んでいた 僕らが乗ってきた乗務員の人たちが現地の人と抱き合いながら涙を流していた
そこであのテロがあったことを知る
レンタカーをピックアップに行くと「よくこんな日に入国できたね」と
国際線も国内線も空港閉鎖となり、レンタカーの予約をしてなかった人たちはそこで足止めを数日間することになっていた
僕らは、状況もわからず、FMから流れる喪に服すような静かな曲と英語の理解できないニュースを聞きながらヨセミテまでドライブ
数日後、ヨセミテバレー内のピザ屋であの衝撃的な映像を目にする
そして、トレイルでは遭難をしてしまい大変なことになった
予定していた下山口から車で100km以上離れたところに翌日の夕方到着
人生初のヒッチハイクで無事に旅を続け、帰国予定日には国際線も飛ぶようになった
この日を境に世界は変わり始めていった…

9.11
2003

SEVとの出会い

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購入したスノーボードの状態を見てもらいたいと知り合いが来店、どうみてもB品なのでそれをそのメーカーの営業に連絡するとすでに彼は退社していた…今なにをやってるの?と聞くと「SEVって知ってますか?」、「あ…あのあやしいやつね」
スノーボードに貼るのもあるので送っておきますよと翌日手元に届きTTのデッキにそれを2枚貼った
その次の日に妙高杉の原スキー場の駐車場からすぐ下にあるゴンドラ乗り場までの短い距離を数ターン
春のザラメが凍った朝一のカチカチのピステン
乗り慣れた板が全く違うフィーリングに…
ゴンドラの中から携帯で「凄かった…すぐに商品を店に納品してください」と

2006

誕生

IMG_4472自然分娩の途中でお腹の子供の様子のおかしいということで緊急手術
数分後元気な泣き声がする
出産直後、心電図を見せてもらうと5分間の心肺停止だった
2440gの元気な男の子が生まれ「遼河」と命名

2007

移転

現在の店舗に移転、建物の中にはふんだんにSEVを敷き詰め心地よい空間をつくる

移転
2010

ポイント KOSHIMIZU

2010年1月 恒例になっていたニセコパウダーカンパニーガイドのゲレンデクルージング中にやってしまった大怪我 不幸中の幸いで胸椎2ヶ所の圧迫骨折と頚椎の棘突起骨折で神経系統などには問題はなかったが、後遺障害認定とされ、腹筋と背筋をしっかり鍛えて約2cm潰れてしまった骨を筋肉で支えていかなければならない
1ヶ月の入院と言われたが、無理して4日で退院し深谷に帰って来た
店の裏で1ヶ月間動くこともできず安静に横になっていた
この時から11時だった開店時間を13時に変更、お客さんが僕の都合に合わせて来店をしてくれるようになった
この怪我により、本格的に体を治そうと鍼灸治療や食事の見直しをすることができた
当時の体重は64kg、今は二十歳の頃と同じくらいで57〜58kgで落ち着いている
そして、スノーボードのライディングも、そして板のチューンナップの内容も徐々に変えることになる
この怪我以前、勤めていた会社を辞める前の一番悪かった24〜26歳の頃よりも今の方が体の動きも状態も良くなった
これが大きな人生の転機となった
そして、怪我をしたその場所にはポイントKOSHIMIZUとネーミングされたという話もある
ゲレンデ内で起こしてしまった事故、テールガイドのコウセイくん、そして前にいてくれたO-Mくんやケンくんの的確な対応に心から感謝します あの時に一人で滑っていたらゲレンデ内でも…そう考えると恐ろしいです

ポイント KOSHIMIZU
2010

WAX屋はじめる

kossymix snowsurfing waxの前身となるkoshi-mix(現kossymix origin)の販売を開始

WAX屋はじめる
2011

アレルギーを知る

DSC05036
とあるブログでニューヨークタイムズ紙での記事が目に止まった
偏頭痛の約7割が遅延型フードアレルギーであることがわかったと
日本の代理店を通し、シアトルの検査機関でデータを取ってもらうと、卵黄、卵白、牡蠣、バニラビーンズなどに多くのアレルギーがあることが判明
アレルゲンを摂取してから12時間以上経過してからの反応であるため何が原因だったかがわからない恐ろしいアレルギー
これにより42年間続いていたアレルギー症状が軽減し身体中の腫れ、むくみ、偏頭痛などが改善していくことになる

2013

雑誌掲載 2013

DIGGIN’MAGAZINE ISSUE 01 SNOWSURF 「SPバインディングについて」

2014

改名

店名をRelax Snowsurf Shopと改名

覚悟を決める
kossymixの卸売りをRIDE SURF + SPORT、patagonia 渋谷ストア、patagonia 吉祥寺ストアではじめる

改名
2014

雑誌掲載 2014

Fall Line 2015 vol.1 「ShopOwnerとしての滑り手」
DIGGIN’MAGAZINE ISSUE 04 TOKYO SNOWBOARDING VISITOR VOICE 「朝丸 」
TRANSWORLD SNOWBOARDING JAPAN 11 NOVEMBER「道具を考えるうえでのスタンス」

雑誌掲載 2014
2015

新たな展開

IMG_2408kossymixはじめての海外への卸売り、オランダのSUNRISE SNOWSURF SHOPで販売スタート
国内では取り扱いディーラーであるpatagonia 渋谷、patagonia吉祥寺、RIDE SURF + SPORT、GENTEMSTICK ニセコショールームでkossymix wax講習会を開催

2015

雑誌掲載 2015

DSC05012Fall Line 2016 vol.1  コラム「ゴアテックスって洗っていいんですか?」
DIGGIN’MAGAZINE  SNOWBOARD BRAND BOOK「I AM READY FOR WINTER」TRANSWORLD SNOWBOARDING JAPAN「20人のライフスタイル白書」
WHITE MOUNTAIN「プロショップへ行こう」

JUNICHIKOSHIMIZU.COM